「基本は誰も教えてくれない日本人のための世界のビジネスルール」青木恵子著(ディスカヴァー、'15.2.20)

基本は誰も教えてくれない日本人のための世界のビジネスルール 

 著者は、故ロッキー青木氏の妻で、「ベニハナ・オブ・トーキョー」の経営者(CEO)である。

 今日(4月16日)、ある講習会に出席するため国分寺駅へ赴いたが、駅にやや早めに着いたので、時間つぶしに伊国屋書店国分寺店を覗いた際にこの本と「マッキンゼー流 入社1年目 問題解決の教科書」大嶋祥誉著(ソフトバンククリエイティブ、'13.4.30)を衝動買いしてしまった。

 青木氏の本は帰りの電車の中と、帰宅してからの風呂の中で読み終えた。つまりその程度の本である。世界、と言っても主としてニューヨークのビジネススタイルをモデルとしている。ほとんどが、通俗ビジネス本や自己啓発書で繰り返される陳腐なものだが、一つだけ大いに参考にしたいイシューがあった。第4章28<余計なことはしない>に紹介さた「ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)」の考え方である。

 日本の組織はどうしても情緒的なムードに浸りがちで、業際が曖昧なところがある。中にはヒトデのように四方八方手出し口出しする人物がいて、そのような人物に限って最後の責任となると口を拭って知らん顔をする傾向がある。

 これについて著者は以下のように述べる。

 

 欧米では何か問題が起きたとき、誰も責任を問われないという事態は起こらない。「責任と権限はトレードオフ」であり、それぞれの仕事の範囲が明確に決まっているので、よかれと思って他人の仕事を手伝うと、場合によっては訴えられる(仕事を奪うことになるから)

 ジョブ・ディスクリプションで細かく規定された範囲の仕事が契約上の権利となり、これで給与が決まる。

 日本人の感覚からすると、他人の仕事を親切心から手伝ったら、評価の対象にこそなりそうだが、欧米人の感覚では、相手に断りもなくその仕事を「奪う」ことは許されない。これが「セクショナリズム」であるという。アメリカでは余計なことをあえてしないことで、仕事の重複を避け、責任を明確にする。

 

 こうした考え方を、明日からの仕事にひとつ役立ててみようか。

 

  

 

「日本の医療格差は9倍」(上昌広著、光文社新書、'15.2.31)―病院遍歴をとりとめもなく振り返る

日本の医療格差は9倍?医師不足の真実? (光文社新書) 

 電子書籍で読んだ。この著者の本では、『医療詐欺』(講談社+α新書)についで2冊目である。

 本書を自分の人生の歩みと重ね合わせて、とりとめもなく甦ってくる過去の記憶をなぞりつつ読んだ、こんな風に。

 

 本書では医師の分布の西高東低が主なテーマとなっているが、自分は関東地方の深刻な医師不足の筆頭である埼玉県に長く居住してきた。それは川口市南浦和、最近では所沢市であり、また仕事の都合で、加須市春日部市越谷市などは今でも縁が深い。川口市に住んでいた頃は、まだ若くてあまり病気に縁はなく、また所沢市の前に住んだ南浦和時代も、妻も忙しく立ち働いていたせいか病気に悩まされることが少なく、埼玉県の医師不足という現実をあまり実感することはなかった。病院にお世話になったのは、せいぜい娘の生まれたときに妻が産婦人科にお世話になった程度だ。確か「埼玉県済生会川口総合病院」だったと思う。

 ところが星霜を経て所沢市に住まったころはわが夫婦とも高齢になっており病院にお世話になる機会が激増した。近くで目ぼしいところでは所沢市の「所沢中央病院」や、川越市の「埼玉医大総合医療センター」があるが、妻が一二度利用しただけで、埼玉県内に限るとなると、医療水準の問題は別にしても病院探しには苦労させられた。

 そうなると所沢市は東京都に近接していることもあり、主として自分の勤務する多摩北部地区の病院を多く利用することになる。東村山市清瀬市小平市西東京市の病院である。また三鷹市武蔵野市は病院以外にも評判のよいクリニックが多数存在し、自分もよく利用している。これらの地域はとにかく多くの病院が割拠しており、医師不足をかこつことはない。もっとも診療科の充実度にはばらつきがあり、単純にはくくれない。

 自分が所沢市に住んでいた2009年8月に整形外科に入院手術したときは、千代田区の病院(「九段坂病院」)を選んだ。そこは、指揮者の岩城宏之さんが、1987年に「頚椎後縦靱帯骨化症」で手術をされたと同じ病院である。手術後、岩城さんが首を固定するためのインストゥルメンテーションを施したままNHKのテレビに出演されていたのを想い出して、ここの病院を訪れたのだった。長年<脊柱管狭窄症>による左脚の痛みで次第に歩くのも困難になってきていたが、どこの整形外科に行っても原因がはっきりしなかった。しかしこの病院において、MRI検査の結果を診た担当のO先生が病名を的確に指摘診断し、手術を執刀していただいたおかげで痛みが嘘みたいに解消した。ほぼ1ケ月の入院治療であったが、おかげで仕事を続けるのに必要な社会的寿命が延びた。高齢ながらいまだにフル勤務ができるのもO医師のおかげであり、自分にとっては足を向けて眠ることのできない大恩人である。

 このように、埼玉県でも東京都に近い地域は、医療環境としては東京に住んでいるのと何ら変わりはない。

 

 2001年頃から、やはり本書で過疎が指摘されている千葉県の房総半島南部に1年ほど住んだことがあるが、そのときは病院に行くことが1度もなく、近くの「亀田総合病院」の脇を通るとき、立派な病院だなと漠然と眺めていた程度だ。

 

 千葉の前は長く鹿児島市に住んだ。数え上げれば30年ほどになる。

 本書でも指摘されているように、九州は病院の多い土地柄である。本書では、主に福岡、熊本、長崎が取り上げられているが、鹿児島県鹿児島大学医学部が医師の供給源になっていて病院が多く存在する。

 長年住んだ鹿児島市は人口60万人あまりを擁する中核市である。一般病院(総合病院含む)としては、「鹿児島大学病院」「鹿児島市立病院」「共済会南風病院」「鹿児島生協病院」「鹿児島逓信病院」「鹿児島医師会病院」「鹿児島厚生連病院」「国立病院機構鹿児島医療センター」「鹿児島徳洲会病院」「鹿児島赤十字病院」「今給黎病院」「中央病院」「今村病院」「相良病院」「鮫島病院」他に専門病院としては「米盛整形外科病院」や「厚地脳神経外科病院」などもある。以上はすべて急性期病院である。驚くべき多さだ。ここだけ全国の中で特別に病人が多いわけでもあるまいに。

 著者が言うように、明治政府を仕切った西国雄藩の一つとしての薩摩藩鹿児島県)に、「藩校造士館」→「鹿児島県立中学造士館」→「第七高等中学造士館」→「第七高等学校造士館」→「第七高等学校」→「鹿児島大学」へと他に先駆けて高等教育機関が設立されていったのは、明治から戦前にかけての歴史、端的に言えば<戊辰戦争>における官軍としての立場が影響しているからであろう。このあたりの著者の日本近代史の分析は、小説のように面白い。

 島津重豪によって1773年に創設された「藩校造士館」に、翌年<医学院>が増設されている。これが鹿児島大学医学部のそもそもの元祖である。

 下の古い写真は、薩摩藩城(鶴丸城)と、その二の丸御門前に設置された造士館から発展した第七高等学校である。

  

 医療の西高東低というこの現象は、他の観点からも裏付けられる。たとえば「文藝春秋」5月号には在宅医療から見た全国の二次医療圏ごとの充実度ランキングのリポート(鳥集徹氏)が載っているが、ここでも同様の医療格差現象が見られる。順位1位~48位のなかで、西日本以外では、長野3つ、愛知1つ、東日本が11で、残りの33は西日本である。圧倒的に西高東低だ。

 

 病院や医師の数が多かろうと少なかろうと、病気に縁がなければあまり深刻に考える必要はないのかも知れないが、歳を取ってくるとどうしても病院のお世話になりがちだ。まあ、せいぜい生活習慣に注意し、医療費・介護費用を無駄に遣わないように努めよう。

舊詩帖5

 

安息の刻

 

いつしか水槽がひっくりかえり

とげとげしかった私の呼吸もおさまった

 

かつては

水面に垢のように脂のういた

胆汁色の水槽の中で

不具な三葉虫

堕胎された悲鳴の断片(きれはし)

血のない蛭

足のもげたむかで

が泳ぎ

ひずみよどんだ暗緑色の水底からは

ぶぐんぶぐんと亜砒酸ガスが湧いては

腐った脊椎動物の肘がすぅーいとながれた

 

太陽はとうに発狂し ひたすらくりかえす

うがいの音とこだまとの交錯の中を

よれよれの水が吐き出され這いのびていったのだった

コオルタアルの上へ

土竜の巣のなかへ

錆びたフライパンの割れ目へ

蟻地獄の陥穽(わな)の底へ

傷だらけの溶岩のすきまへ

 

排気ガスのように

私はそれとなく昇天する

 

                                                                              1962.11.11

 

舊詩帖4

 

 風景

 

すがれた野末に

ななかまどやにせあかしや

流産した根っ子たち などなど

細くよろめく赫っぽい道

めまい

振り返った顔がひとつ

恐怖に見開いた瞳

みみず

と見えた細い流れ

枯草踏んで

どこへも行かない

彷徨

朱い夕陽が

車輪のように目眩めく

だが鈍い

は私の呼吸

黄昏れる

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/The_Scream.jpg

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(注)この作品は、明らかに、ムンク「叫び」に触発されて書いたものだろう。

 ただ、なにしろ50年ほど前に書いた詩なので、その辺はもう一つ定かではない。 

新詩帖3

 

レクイエム

 

今日も亦

帰宅深夜に及ぶ

情けなきこのなりわい

人の死に絶えしこの時刻に

せめて一服の茶をたて

永遠に思いを馳せ

 

フォーレのレクイエムを聴かん

 

深重なるジュリーニの棒

天使ガブリエルの如き

キャスリーン・バトルの歌声

そは果たして人の子なるか

 

外は暗黒の闇

我は果たして悪魔の子なるか

消えてはかつ結ぶ

よこしまなる想念の数々よ

五黄土星 巳年生まれの一個の男児

いたずらに齢をかさね

ただ慙愧の涙あるのみ

 

ーああ イエズスよ

キャスリーン・バトルは神に子に訴える

 

ー救いたまえ

我は天空に昇りし父の霊に向かい

声にならぬ声で呼びかけ そして叫ぶ

 

生前に孝を尽くし得なかった父よ

然るが故に憐れなりし我に

救いの手を差しのべ給え

 

日々は闘いなり

日々は挫折と後悔のくり返しなり

やがて我も天空に昇る身なり

 

リベラ・メ

リベラ・メ

 

フォーレ:レクイエム

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(注)この作品は、九州で会社を経営していて次第に窮地に陥り追い込まれていった時期に実感をこめて書いたものである。絶体絶命のピンチの際には、遥けき父の霊に向かって、救いを求めてくり返し祈ったものだ。

 カルロ・マリア・ジュリーニは、ウィーン交響楽団を率いての来日時に一度だけ聴いた。マーラーの「交響曲第1番」が素晴らしい演奏で、あまりの美しさに陶然となった記憶がある。真摯なる人ジュリーニは今でも最も好きな指揮者の一人だ。