映画「ケイン号の叛乱」を観る

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  この古いが世評の高い映画を初めて観た(イマジカBS  6/4)。重層的で奥行の深い映画だった。傑作である。一気に見通してしまうだけの優れたドラマ性と緊迫感に富んでいた。

 ハンフリー・ボガードは無論、軍法会議の弁護士役のホセ・ファーラーもさすがの芸達者ぶりだった。

 昨晩はスピルバーグの映画「マイノリティ・リポート」(フジ・テレビ)を観ている。フィリップ・K・ディックの原作のSF映画だが、一言で言えば、まあつまらない映画だった。ただ、マックス・フォン・シドー(ラマー局長)はさすがの存在感だった。

 

「ケイン号・・」は、組織運営において起こりがちなテーマを扱った映画だ。昭和57年の三越の岡田社長の解任劇を思い出す。(最近では、「東芝」?)

 軍の指揮官が精神錯乱を起こすというこの映画を観て、最初に思い浮かべたのは、ロバート・アルドリッチ監督の「攻撃」である。無能で臆病な上官に対抗する中尉に扮したジャック・パランスの演技には鬼気迫るものがあった。

 また、組織の非情さと、最高指揮層の無能さと腐敗ぶりを描いたスタンリー・キューブリックの「突撃」という救いのない映画も頭に浮かぶ。映画のラストで、捕虜になったドイツ女(クリスティアーヌ・ハーラン、のちのキューブリック夫人)が居酒屋に集まったフランス兵たちに強制されて歌う場面がある。歌はドイツのフォーク・ソング ”The Faithful Hussar(Der Treue Husar)”だが、最初からかい半分ではやし立てていた兵隊たちが、次第に歌に聞き入り、一緒に口ずさみ、ついには涙を流し始める。

 キューブリックの全映画の中でも最も心を打たれるシーンである。

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  これらの作品は、人生の長い時間を大勢の人間が蝟集するいくつかの組織の中で過ごしてきた自分にとって、きわめて印象深い作品である。

 

 こうした危険で良心的な映画を作って発表することのできるアメリカという国は、何だかんだと言っても尊敬に値する。トランプ騒動をみても、アメリカには、良かれ悪しかれ骨のある人物が数多くいて、日本から見ていてまことにうらやましい。

 

 最近は、映画やテレビ・ドラマを見る機会が減った。年齢のせいか、2時間もテレビにクギ付けという状況に耐えられなくなったからだが、そもそも最近は映画もテレビ・ドラマもろくなものがない。いい例が「シン・ゴジラ」だ。筋立ては底が浅いし、出演者も小粒で存在感が薄い。期待して観ただけに、いたく失望した。

  2日続けて映画を観るなどというのは今では珍しいことだ。「ケイン号の叛乱」と「マイノリティー・リポート」という、この二つの映画を見比べると、映画というものの本質が、すっかり変わってしまったことがよく分かる。最近では、非合理にして複雑怪奇な人間や社会の本性を抉り出すような作品は流行らないのだろう。今どきの映画は(TVドラマも)どれもこれもネタが尽きてしまったという感じで、またある種テレビ・ゲーム化してしまっていて、鑑賞に堪えるものが少ない。