チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」が心に響く

イスラム国事件」や「ウクライナ紛争」などによる世界情勢の不安定化、そして何よりも「川崎・中一殺害事件」の衝撃、あるいは職場での業務上のさまざまな軋轢などで、わがか弱い脳髄は疲弊し切っている。今は言い知れぬ不安と焦燥の中で日を過ごしている。

 そこで、わが「精神は、あわれにも、砂漠をさすらう旅人が一掬の水を求めてあえぐように、なんでもよいから神的なものを少しでも感ずることに慰めを得ようとして」(*)、ふと音楽を聴こうと思い立ったのである。無論聴き慣れ親しんだクラシックの数々だ。ついこの前までは、聴くべき音楽作品がほぼ尽きてしまったような気がして、棚に並べてあるCDにまったく触手が伸びなかったのに。最後に熱を上げたのはショスタコーヴィチで、それもしばらくしてすっかり飽きてしまっていた。

(*)ヘーゲル精神現象学序論」(岩崎武雄訳)より

 棚から選んだCDは、とりあえず、カラヤン指揮のチャイコフスキー交響曲第4番、5番、6番」(1971年)、アンネ=ゾフィー・ムターの弾くメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」(伴奏はカラヤンベルリンフィル)それに、クラウス・テンシュテットベルリンフィルシューベルト交響曲第9番」であった。どこから見ても通俗的(?)名曲ばかりである。決してバッハの「マタイ受難曲」でもなければ、ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」でもない。このような精神が疲弊し弱くなっているときには、なぜか通俗的名曲に心魅かれるのだ。だから、高踏的であることを自ら任じている音楽ファン(愚かにも、かつて自分もそんなつもりでいた)が内心では軽く見ているような通俗的な曲が今に生き残っているのだ。

チャイコフスキー:交響曲第6番 メンデルスゾーン&ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲 シューベルト:交響曲第9番「ザ・グレート」 

 これらを通勤の車に持ち込んで、ボリュームいっぱいにして聴く。自宅でよりも一層集中して聴くことができる。トヨタカローラの標準装備の音響装置は決して高品質とは言えないが、やはり車の中の閉じられた空間は音楽を聴くには最高の環境である。

 余談だが、われわれの若い時代の音楽鑑賞の環境はいたって貧しく、古ぼけたラジオから、ひどい音でフルトヴェングラーのブッルックナー「交響曲第7番」や、メンゲルベルクチャイコフスキー交響曲第5番」などを想像力を逞しくして聴いて感涙に咽んだものである。貧しい音の奥にある音楽の真髄に迫ろうと必死で聴いていたのだ。その時代の環境の方が音楽により浸り切ることができ、感動も一入(ひとしお)だった気がする。だから今でも、音響装置に凝るようなことはない。今の時代、何でもかんでも贅沢になり過ぎた。

 

 早速職場からの帰途の車中でチャイコフスキー交響曲第6番を聴いた。1971年のカラヤン空前絶後の名演である。あるときは分厚い重低音を響かせ、あるときは優しさと悲しみを紡ぎだす弦楽器、咆哮する金管楽器、ビロードのように滑らかに駆け抜ける木管楽器、聴く者の魂が割れんばかりに打ち出されるティンパニー、何よりもカラヤンの充実した凄まじいオーラがオーケストラの隅々まで行き渡って密度の高い、まるで音楽の神が降臨したかのような、心が打ち震えて止まない奇跡的な名演である。

 当時のメンバーには、ジェームズ・ゴールウェイ(主席フルート奏者)、カール・ライスター(主席クラリネット奏者)、ゲルト・ザイフェルト(主席ホルン奏者)、レオン・シュピーラー(第一コンサートマスター)、それにスイス・ロマンド管弦楽団から迎えた名手ミシェル・シュヴァルベ(第一コンサートマスター)など錚々たる超一流の演奏家が轡を並べていた。ベルリンフィル史上でも、もう二度と拝めぬ壮観この上ない陣容だ。

 この曲の演奏では、今までムラヴィンスキーの演奏(ドイツ・グラモフォン)が絶対的な存在であった。管理人の大学生時代に発売されたが、たちまちムラヴィンスキーに傾倒し、長年聴き続けてきた愛惜措く能わざる名演である。

 この演奏は、超重量級のレニングラード・フィルを自家薬籠中のものとしたムラヴィンスキーが1960年11月、ウィーンのムジークフェラインザールで録音したもので、カラヤンの演奏と甲乙を云々するのもはばかれる歴史的名演である。カラヤンの演奏を金無垢と称すれば、ムラヴィンスキーは燻し銀と言っていいだろう。ロシアの大地の匂いのする、豪快にして緻密・繊細で合奏力の高さは凄まじい。終始哀調に彩られつつ、執著を去って放下するような諦観に満ちた超弩級の演奏である。

チャイコフスキー:交響曲第4-6番

 昨年、大阪で、レニングラード・フィルが改称したサンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団の演奏(ユーリ・テミルカーノフ指揮)でチャイコフスキー交響曲第4番を聴いたが、長年想像の中で培ってきたムラヴィンスキーレニングラード・フィルの理想の演奏という幻想が頭にこびりついていたので、さほどの大感激とまでは至らなかった。むしろそのとき印象に残ったのは、庄司紗矢香のヴァイオリン(チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲)だったのである。(これは余談)

 

 この別格の二人の他では、フェレンツ・フリッチャイ指揮のベルリン放送交響楽団の演奏がこれに次ぐだろう。曲が本来持っているロジックとダイナミズムの上に、白血病からのつかの間の再起後という指揮者フリッチャイ自身の悲劇的運命のイメージが重なる。心を締め付けるような弦楽器の繊細なアンサンブル、蕭蕭として鳴り響く管楽器、そして諸行無常の漂う美しくも悲哀に満ちたロマンチックな演奏は、わが日本人の感性にもぴったりで、愛好者も多いはずである。

 また、わが日本の誇る西本智実がロシア・ボリショイ交響楽団と行った演奏もある。もう一段の求心力が欲しいところだが、繊細にして流麗な立派な演奏であると思う。オケの鳴らしかたも実に堂に入っている。

チャイコフスキー : 交響曲第6番ロ短調<悲愴> チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」