10月13日の午後6時から、N大学の親しい仲間が年に1度久闊を叙すために集まる「ホワイトクラブ」というネーミングの親睦会が開かれた。今年の参加者はやや少なく、8人であった。会員名簿では19名を数えるのに。
今年はN市内の「I軒ホテル」で行われた。大学卒業以来の仲間だから、皆もう55年ほどの付き合いである。思えば気の遠くなるような長い歳月だ。
例会が終わって、有志で市内の2軒のバーで飲み直したが、うち1件は在学中からある懐かしい店だ。ほとんど当時と一緒のスタイルで生き残っている。驚くべきことだ。
ともに飲みに出た友人は、ほろ酔い加減で街を散策しながら、昔あったいろいろな店舗や、店舗の跡を見つけては懐かしげに思い出を語る。しかし、自分は、思い出しはするがあまり懐かしさを感じない。何故だろう。
齢を重ねると感受性が喪われていくのだろうか。とすれば、懐かしさに浸る友人は、まだ若々しい感受性を持っているに違いない。ある意味羨ましく思うが、年齢を経るごとに、次第に世間のさまざまな事象への執着がなくなっていくのも自然なことだろうと自ら納得してみる。
帰郷して2~3日後、街を一緒に歩いた友人Sさんから郵便封筒が届いた。その中には、『SUR』というN大学の文芸誌(N文学第21号)が入っていた。管理者が大学2年のころに発行されたもので、初めて活字にした自分の詩が載っている。この文芸誌はもう手元にはなく、管理者にとって幻の雑誌だった。五十数年ぶりの邂逅であった。
あまり上品な作品とはいえないためか、海野朋夫というペンネームで載せたのだ。恥ずかしながら下記に再現してみる。今読むと修辞のおかしなところもあるが・・・・。どうかご笑覧のほどを。
秋の生理 海野朋夫
(季節の激烈な発情がようやく収斂されてーーーーー)
ひきちぎられた萎えた陰茎
あるいはひきつった鈍色の喀痰
可視的非在たる蒼穹に虫様突起の濫造さながら
顫動増殖に駆られているうそ寒い群雲が汚れている
季節の膣からは透明な経水が散乱し
空中から角膜の剥げ落ちる白々しさ
垂れこめた古い羊皮紙のような疥癬
被虐嗜好性感覚が悲鳴をあげて
酸鼻きわまる裂傷をつくろとき
徐々に徐々に季節の胸は浸潤されてゆき
澄み渡る咳の音に耳を傾け
やがて西空でおびただしい血反吐を吐いた
陰金田虫の変態性欲者は
間もなく子宮癌で腐り果てるであろう
さもなければ癲狂院の長い廊下で
鉄のごとく陰険な忍耐を啖い尽さねばならぬ
そしてあまりにも苦い
精神分裂症を嘗め尽さねばならぬ
絶え間なく飛びしきる
赤茶けた脱陰毛に吹かれて