モーツァルトは天才だ!

 最近、久しぶりに「ショーシャンクの空に」をJ:COMで観た。

 スティーブン・キングの中篇小説『刑務所のリタ・ヘイワース』をフランク・ダラボンが映画化したもので、ティム・ロビンス(アンディ)とモーガン・フリーマン(レッド)が主演した深く心に沁みる感動的なヒューマン・ドラマである。

 映画の中で、図書館係となったアンディが、州議会から送られた古書の中に、モーツァルトの「フィガロの結婚」のレコードを見つけ、刑務所内放送で流す場面がある。放送室の鍵を閉め切ってレコードに針を載せると、刑務所内のいたるところにフィガロ第3幕の伯爵夫人とスザンナによるソプラノの二重唱『そよ風に寄せる』の美しい旋律が流れる。中庭にいた多くの囚人たちは空を見上げて金縛りに遭ったように、そして惚けたように聴き入るという、作品中もっとも感動的で美しい場面だ。

 映画に使われたものではないが、下はチェチーリア・バルトリとレニー・フレミングという豪華歌手が歌った同曲の映像である。


Bartoli & Fleming - Le Nozze di Figaro - Sull'aria ...

 

 さて、それ以来というもの、聴くのは専らモーツァルトと相場が決まってしまった。雑然と重ねてあったCDの山の中から、モーツァルトの曲をみな引っ張り出す。車の中でクレンペラーの「魔笛」や沢山集めた「レクイエム」を流しながら走る。

 

 さて、今日(6月28日)のことだ。iPad miniyou tubeを検索して、K331のピアノ・ソナタを聴くことにした。この曲とK466のピアノ協奏曲は高校の頃からモーツァルトの曲ではもっとも親しんできたものだ。

 これまで聴き親しんできたのは、K331では1956年のリリー・クラウスの演奏だ。ところで今日は、グレン・グールドとアンドレアス・シュタイアー(「トルコ行進曲」のみ)の演奏を聴いてみて、その演奏の奇抜さにあらためて驚くと同時に、管理人も年を重ねたせいか懐が深くなり(?)、これらの演奏に言うに言われぬ感動を覚えることができるようになった。これらを聴いたら、他の演奏は刺激が少なくて聴けなくなる。麻薬のように危険で、腰が抜けるような忘れられない演奏だ。(シュタイアーには、バッハのゴールドベルク変奏曲ハープシコードによる演奏の映像があるが、これも素晴らしい。)

 K466の「ピアノ協奏曲第20番」、普段はクリフォード・カーゾンベンジャミン・ブリテン盤を愛聴しているのだが、you tube内田光子の指揮・ピアノによる映像があったので何気なく観た。するとどうだろう、冒頭の指揮の場面を観た瞬間から身が打ち震え、涙が滂沱と流れる(大袈裟?)ほど感動の波が襲ってきたのだ。気合の入った第1楽章のカデンツァも素晴らしい。宇野功芳氏の「柔らかくも臈(ろう)たけた美音」という表現がぴったりだ。

 内田光子の軽く目を閉じて、まるでモーツァアルトの霊が乗り移ったかのような、しかもインド神話アプサラス神を思わせる強烈に心魅かれる(宇野氏流に言えば)臈たけた腕さばきが見事だ。ピアノもさることながら、その妖しいまでの表情と身の裁きが神憑り的に曲を支配する。演奏が終わっても拍手が鳴り止まないのは当然だ。

 ところで、演奏を終え、日本人らしきヴァイオリンのトップと握手をしたが誰であろう?伴奏のカメラータ・ザルツブルグには日本人でセカンド・トップを勤める手塚有希子さんがいるが、どうやら違うようだ。もう一人、日本人の血が流れているクレア・ドルビーさんがいるが、似ている感じだ。そう、彼女かも知れない。

 内田光子のこの曲の演奏は、ジェフリー・テイト(イギリス室内管弦楽団)との演奏をiPadに入れて時々聴いてはいたが、やはり目から来る印象は圧倒的だ。

 

 最近つくづく思うのは、作曲家でモーツァルトほどの天才は他にいないということだ。モーツァルトだけが天才の名に値する存在であり、例えばベートーヴェンですら大秀才の範疇にとどまる。他は押して知るべしだ。(あ、バッハは神であるということを言い忘れていた。)

 大学生の頃、友人でA・Eというモーツァルト狂いがいて、彼への対抗上やむなく管理人はブラームスにしきりに入れ込んでみせた。学生という観念世界の住人だった愚かさからだったろうが、今思えば、絶対にA・Eの方がまともだ。

 兎に角、今やモーツァルトを聴くことは人生に残された数少ない悦楽にして大いなる慰めなのである。