「炭水化物が人類を滅ぼす」夏井睦著(光文社文庫、'13.10.20)―合成の誤謬?

炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学 (光文社新書)

  本書の初版は、2013年10月20日だが、糖質制限というテーマに限れば、2011年11月に出版された『主食をやめると健康になる』(江部康二著)と同工異曲の本である。なにしろ著者自ら江部氏の本を読んで糖質制限を始めた経緯から書き起こしているのだ。また、江部氏の本から引用して、糖質制限を①プチ糖質制限②スタンダード糖質制限③スーパー糖質制限、の3パターンに分けて説明している。

 江部氏が自らの病院で糖質制限を治療に用いて詳細な臨床データを収集しており、また専門医である立場を考えれば、江部氏の本の方が具体的かつ詳細で糖質制限の手引書としてはより参考になる。(夏井氏は新しい創傷治提唱している形成外科医である。) 

 ただ、本書は一般的な意味での糖質制限本とはやや異なる。壮大な人類史を見据えて、炭水化物という栄養素を様々な視点から問い直して、従来の栄養学のパラダイム転換を企図したものだ。

 先ず目を引いたのは著者の文章の上手さである。ユーモアに富み、比喩と皮肉を交え、言葉の選び方、表現テクニック、また構成の巧みさに思わず引き込まれる。ややもすれば饒舌で、ジョークが頻出する嫌いはあるものの、論旨が明快なので説得力に富む。

 

 然はさりながら、本書の議論の組立には根本的な論理矛盾がある。糖質制限というコンセプトは、屁理窟を言えば、ポール・E・サムエルソンの謂う「合成の誤謬」そのものと言えなくもない。糖質制限という考え方が、たとえミクロの観点からは正しいとしても、マクロ的に観た場合、全人類がこれを実行すれば社会が崩壊するのは誰にでも分かる。

 穀物(小麦、米、とうもろこしなど)や砂糖キビを耕作している農業は壊滅し、農地は荒廃し、多くの農業従事者は職を失う。また、穀物を扱っている様々な事業体、例えば穀物メジャーや総合商社、備蓄に関わる倉庫業者、多くの船舶会社、トラック運送業者、米穀を扱う無数の卸売業・小売業、酒造メーカー、そして農協や農薬メーカーなどが立ち行かなくなる。糖質制限ショックとも言うべき未曾有の不況が世界を覆い尽くし、国家体制が耐え得る限度を超えた失業者が溢れ返り、社会的大混乱に陥るだろう。ここまでくれば、フィリップ・K・ディックの描くSFの世界だ。従って当然ながら、こんな状況が起こりえないのは言を俟たない。

 著者はそんなことは百も承知で、はなから(「はじめに」)「私としては、自分が痩せればそれでいいのであって、自分以外の同年代のオヤジたちに痩せて欲しくないのである。私以外の中年オヤジはずっとデブ体型のままでいて欲しいのである。」と照れつつ書き述べているではないか。つまり、糖質制限は、実践に限って言えば、あくまで一種の信仰の問題で、信仰を同一にする仲間に啓発を行うことを目的としているのだ。その意味では、管理人も信仰仲間の一人だと告白しておこう。

 

 著者が糖質摂取をこき下ろすやり方はいかにも痛快だ。

 糖質中毒を糖質という憑き物にとり憑かれたようなものと決めつけ、「糖質摂取により『心』は一時的に満たされるが、『体』はどんどん不健康になっていく、これはまさに、ニコチン中毒、覚せい剤中毒と同じで、『糖質中毒』と呼ぶべき状態だ。」

と断じる。糖質はここにおいて、ついに不法ドラッグ並みとなる。

 著者は更に、日本糖尿病学会と糖尿病専門医と製薬会社に筆誅を加える。この学界と医師、製薬会社、それに(本書には何故か出てこないが)厚生労働省で構成されるトライアングルが病気を育成して飯を喰っている利権集団である。(このトライアングルに無節操なマスコミを加えてカルテットとした方がいいかも知れない。)

 管理人も関わりがある精神病の世界でも、かつて「うつ病」でも同様のことがあったが、現在では新オレンジプランなるものを大々的にぶち上げて「認知症」を国民病にして利権を拡げようとする動きがみられる。この分野では、日本糖尿病学会に代わって日本精神・神経学会が登場する。

 

 本書は後半から、先ず食物のカロリー数の諸問題を取り上げ、三大栄養素とカロリーという概念をあやしいものと断罪し、栄養学の常識を覆すことはら始め、更には生命体の進化とか農耕の起源について筆が及んでいく。この辺からはやや専門的になっていくが、眩いまでの該博な知識に圧倒されつつ、飽きることなく一気に読了することができる。

 また、アメリカ中西部の大穀倉地帯を支えるオガララ帯水層の枯渇が目前に迫るなど地球全体の自然破壊の進行を考える時、地球上の淡水総量に比較して地球人口70億人は多すぎると著者は指摘する。果してそれが地球人類のカタストロフの一里塚となるのだろうか。(30年後の人口は何と90億人に達するそうである。)

オガララ帯水層 - Wikipedia

 

 最後の「神々の黄昏」の項では、穀物栽培がもたらした災厄について記している。一万年前から人類を救い、腹を満たし、文明を発達させてきた穀物という神は、実は偽りの神、否”悪魔”であったと断じている。

 著者によれば、肥満と糖尿病、睡眠障害抑うつアルツハイマー病、歯周病アトピー性皮膚炎を含む様々な皮膚疾患をもたらしたのは、大量の穀物と砂糖の摂取が原因だったのだ。

 そして、世界中の土壌から養分を吸いつくし、地下水をも飲み干そうとしている従来型の灌漑農業と穀物生産は殆ど限界にきており、地下水の枯渇とともに終焉を迎える穀物栽培の転換が早急に求められていると結論づける。

 穀物という神の黄昏を見届けた後の人類は、もう少し長生きするのか、それとも穀物と人類は同時に黄昏を迎えるのか、それを選ぶのは私たちの大脳だ、として本書を結んでいる。

 

 管理人は、今まで地球人類を終焉に導くのは、かつてミノア文明を壊滅させたサントリーニ火山、ボトルネック効果(*)ををもたらしたトバ噴火、イエローストーンのようなスーパーボルケーノの大噴火のような、火山(成層火山カルデラなど)の破局的大噴火だと思っていたが、穀物栽培の終りという要因も視野に入れなくてはならなくなったようだ。前者は純粋な自然現象であるが、後者は人類の奢りが招いた、いわば自業自得とも言える大惨事である。

(*)ボトルネック効果:生物集団の個体数が激減することにより遺伝的浮動が促進され、さらにその子孫が再び繁殖することにより、遺伝子頻度が元とは異なるが均一性の高い(遺伝子多様性の低い)集団ができることをいう。(ウィキペディア)これを、トバ火山の大噴火が原因とする意見がある。(トバ・カタストロフ理論)

遺伝的浮動(いでんてきふどう)とは - コトバンク

 

 いずれにしろ、本書は糖質制限という小手先の健康本の範疇を超えた地球文明論として一読の価値がある。