リーダー研修資料

  以下は、管理者の勤務している医療法人の事務部のリーダーの研修のためにまとめたものである。今まで読み学んだ本からの引用が多いが、みな長い歳月を生き延びてきた珠玉の言葉ばかりである。

                                      

 

 先人に学ぶ人生の極意
(組織における処世の知恵)

 

<はじめに>
 大河ドラマ「官兵衛」で鶴見辰吾が好演した戦国武将の小早川隆景は、義理に厚く、思慮深い性格の大器量人であったと言われているが、『名将言行録』に隆景の次のような言葉が残されている。
「分別とは何か」と問うた黒田長政に対し次のように答えたという。
「長く思案して遅く決断する。分別の肝要は仁愛で、仁愛を本として分別すれば、万一思慮が外れてもそう大きくは間違わない。」
 仁愛とは、他人の立場や心情に対する真摯な思いやりである。他人への人間的なやさしさ(=愛情)を基本にしろ、ということである。


 また、次のような言葉も残しているが、味わうべき言葉である。
「自分の心に合うことは、皆、身体の毒になると思え。自分の心に逆らうことは、皆、薬になると思え。」
 人は普通、言葉であれ出来事であれ、自分にとって快いことを好み、気に入らないことや耳に痛いことを嫌う。しかしそこにこそ処世上の大きな陥穽が潜んでおり、前者を「毒」と言い切った隆景は、人間の心のありようの表も裏も、清も濁も広く深く究めた真の賢人であった。


 もしかして隆景には、唐の太宗の諌議太夫の魏徴のことが頭にあったのかも知れない。
「太宗からみれば、魏徴はなんでもかんでも反対する直諌の士であった。だが、太宗はかならずしも魏徴の反対意見をそのまま採用したのではない。
―魏徴は我が鏡である。
 魏徴の諫言のたびに、太宗は自分のすがたを、鏡のなかに見直すような気がした。
魏徴という鏡のなかに、太宗は自分の姿のみだれを認め、素直にそれを改めた。
(『小説十八史略』(5)陳舜臣
 このように先人は、油断をすれば自分の野放図な心こそが、あらゆる場面で大きな落とし穴となりうるものと認識して、常に自らを戒めることを怠らなかったのである。
以下、先人の知恵を少し学んでみることにする。

                                      

 

組織リーダーとしての処世の心構え


Ⅰ 生き延びる心構え

1. 言葉で他人を刺激することをしてはいけない。
 イエスも言っている、「口に入るものは、皆腹を通って、かわやに落ちる。しかし、口から出るものは、心から出るもので、これが人を汚すのである。」(『マタイの福音書』15章11節)

 

2. 正義・正論で相手を論破することをやめる。小池龍之介の著作より)
 自分の「正しさ」を言い張ることは、たいていの場合、周りの人にとって有害である。

 

3. どのような場合であろうとも、最後に必ず相手の顔を立てる。(顔を潰さない)
 相手の顔を完全に潰すことは、相手の人格を全否定することであり、恨みを長く残すことになる。

 

4. 批判も非難もしない。苦情もいわない。
 人を批評したり、小言をいったりすることは、どんなばか者でもできる。そして、ばか者にかぎって、それをしたがるものだ。(デール・カーネギー「人を動かす」より)

 

5. 真実は語られなければならないと信じるのは哲学者くらいのもので、この世のたいていの事柄は、言わずにすますほうがいい。

 

6. およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。(デール・カーネギー「人を動かす」より)

 

7. 感情の奴隷になってはいけない。感情を制することこそ、最高の人間精神の発露である。・・・
 自己をコントロールし、自分の感情を支配すること、これ以上偉大な支配はない。それは意志と理性の勝利である。
 非常な憤りや、あるいは喜びに我を忘れた瞬間、人はいつもの自分と遠くかけ離れたところにいる。その一瞬が、一生の汚点となるようなことを引き起こすのだ。(グラシアン・バルタザール「処世神託」より)

 

8. 平和であることは人類最大の幸福だが、平和は忍耐なくしては生まれない。よく耐え忍ぶことが処世の秘訣であり、人間の学ぶべき教訓の九十九パーセントまではただこの「忍」の一字に凝縮されている。
(グラシアン・バルタザール「処世神託」より)

 

9. 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(『マルコの福音書』9章3節でのイエスの言葉)
アッシジの聖フランチェスコが修道院で発揮した真のリーダーシップの在り方
(神谷秀樹氏の紹介による。)

 

10. 生きていくためにわれわれは、いろいろな人間と接触しなければならない。
 それらの人とうまくやっていくには、深い配慮がいる。人々との接触は種々の危険を伴うものであるし、不幸な衝突もありがちである。・・・
 ホメロスの詩に歌われた智者オデッセウスの知恵は、「危険から遠ざかる」の一言である。一番安全な方法は、「見ないふりをする」「聞こえないふりをする」ということである。ただしこれは露骨にやってはいけない。失礼にならないようにしながら、この方法を使えば、よく危険を避けることができるものである。(グラシアン・バルタザール「処世神託」より)

 

11. 言葉については、ウシオ電機会長の牛尾治朗座右の銘にしている明末の儒学者の李二曲の文言を掲げておく。これを黙養の修行という。
「修学はまず不言を習うべし。始めは勉強力制して数日一語を発せず。
ようやくにして数か月、一言も発せざるに至る。極は三年、軽々しく一語も発せざるに至る。
 かくのごとくなれば、すなわち貯うるところのもの厚く、養うるところのもの深し。而して、言わずんばすなわちやむ。言えばすなわち経をなさん。」(『帝王学の源流』伊藤肇)
 この言葉を、安岡正篤は著書で次のように噛み砕いて紹介している。
「べらべら口をきかない。ついには「三年軽々しく一語を発せざる」に至るという。黙するということは内に力を蓄えることだ。かくして発せられた言は人を心服させるに足る。自然においては静寂、人においては沈黙がよいものだ。」(『一日一言』安岡正篤
 さすがに“白髪三千丈”の国の人の表現である。要は、多弁・饒舌という無駄な言葉の消費を控えれば、内に貯えが積み上がり、以降の発言に重みが出る、というような意味か。

 

12. この文言には、言葉を通じて相手とわかりあうことの難しさということが背景にある。
 人同士の意思疎通の困難さについて、名著『「話し方」の心理学』の著者ジェシー・S・ニーレンバーグは、同書の冒部分で次のように言っている。
意思疎通を阻む理由を根源までたどれば、そもそも人間と人間が話すことに一番の問題がある。・・
 ある課題について理性的に話し合おうとしているのに、気がつけばたがいの自慢になったり、相手からの励ましをさりげなく要求したり、嫌味を言ったりしている。本人も気づいていなかった願望が論理的な思考を妨害し、理性的な話し合いも本来の目的もどこかに行ってしまうのだ。」
「たいていの人は自分以外の人間など眼中にないのである。少なくとも人の知識や意見にはさして注意を払っていない。
 情報交換をする際、こちらが発信する情報をそのまま相手が受け取るなどと考えてはならない。相手に伝わるときにはかなり目減りしている。」
 本書の“あとがき”で 訳者は、「そもそも人間は他人の話など聞こうとしない、というのが本書の出発点だ。」と言っている。

 

Ⅱ 業務に取り組む心構え

1. すぐやる、必ずやる、できるまでやる。
日本電産の3大精神の一つ)

 

2. 日本電産社長の永守重信が信用できないとする人間とは、
 <すぐ言い訳する、泣く、開き直る、逃げる、辞める>
以上は、『日本電産永守重信、世界一への方程式』(田村賢司著、日経BP社)より引用

 

3. 組織では、相互信頼の上に個々の仕事が成り立っている。したがって、組織内においては、ホウ(報告)・レン(連絡)・ソウ(相談)を密にすることが最も大切である。人の信頼を得ようとすれば、人に不安を与えないようにしなければならない。そのためにはすすんで状況を報告することである。
日本電産『挑戦への道』の「仕事の要諦」より)
 一方、「未来工業」の山田社長は、ホウ・レン・ソウを禁止せよと言う。
昭和から平成になり景気が悪化すると、リーダーが『決断して失敗する』リスクを避け、決断を先延ばしするようになった。会議では部下に意見を発表させるが何も決断しない。『各部署に持ち帰ってさらに検討せよ』が結論でこれが繰り返される。会議の度に上司は部下に『報・連・相』を求める」
「上司の仕事は部下の様子を観察して、話しかけるなどして情報を聞き出すことだ。昭和の会社はそれが当たり前だったし、それができない上司は仕事をしていないのと同じことだ」と山田社長は言う。
 互いに矛盾するような考え方だが、いずれも真実を衝いている。前者は組織内で人と人との信頼関係を築くためにホウ・レン・ソウを活用するという趣旨であり、逆に後者は、とかくホウ・レン・ソウが陥りやすい罠について注意を喚起した言葉だ。

 

4. ユニクロ柳井正会長が「これが私の最高の教科書だ」と絶賛する、米国のコングロマリット(多国籍企業)ITTの元最高経営責任者のハロルド・ジェニーンの著書『プロフェッショナル・マネジャー』から少し引用してみる。ジェニーンは、ITTを四半期単位で58期連続増益を成し遂げた、まさに 経営の神 様である。
 以下の文章で彼が言う「最高経営者」という立場は、われわれ中間管理職にもそのまま当てはまるものだ。(下線は筆者)
「職業人としての私の全生涯を通じて、公式の組み合わせや図表や経営理論によって自分の会社を経営しようとした(いわんや、それに成功した)最高経営者には、いまだかつて出会ったことがない。」
「いかにも手ぎわよくまとまったこれらの理論(注:様々もてはやされてきたなセオリーXやセオリーYといった経営理論のいくつか)の難点は、私の知る限り、セオリーYあるいはセオリーXに厳密にしたがって経営されている会社はひとつもないということだ。軍隊でさえそんなことはおこなわれていない。戦場で下士官と少尉が実際に果す役割についてすこしでも知っている人ならだれでも、リーダーシップというものは階級より人に属することを知っているだろう。いざというとき、しっかりした少尉がいれば、彼が指揮を執る。しかし、優柔不断な少尉しかいないときは、下士官が非常の決断をしなくてはならない。ビジネスの世界でも同じことだ。困難な決定は、現実には、ペンタゴンでだろうと、牢獄でだろうと、重役室でだろうと会社のカフェテリアでだろうと、先頭に立って他を導く自信のある男女によってなされる。」
「真のリーダーは下の人びとに、どんな理由からでも自分に近づくことを恐れさせないよう、まがいものでない門戸開放政策を維持しなくてはならない。最高経営者に向かって、「これこれのことについて、あなたは完全な間違いをなさっていると思います。そしてその理由はこれこれです」と、だれでも気兼ねなく言えるようでなくてはならない。自己のエゴを克服している最高経営者は、そうした批判に耳を傾ける。なぜなら、たとえそれが間違っていても、なにか新しく得るところがあるかもしれないからだ。それからその彼(彼女)に、事実とまっすぐに対峙させる。そしてもしその彼(彼女)が正しければ、最高経営者は彼(彼女)に大いに感謝して、状況の改善にとりかかればいい。その処置についてのうわさはたちまち会社の隅々に伝わり、他の人びとも自由にものを言うように仕向けるだろう。だれがなんと言おうと、どんな会社でもだれかが頭脳を独占する(したがってその一人の考えだけが正しい)などということはあり得ないのだ。」
「リーダーシップが発揮されるのは、言葉より態度と行為においてである。」
「数字が強いる苦行は自由への過程である。」

 

5. ラム・チャランの『徹底のリーダーシップ』(プレジデント社)より、まず冒頭の柳井正の解説
からの引用。
リーダーが泥まみれになってやらない限り、下の人間が泥まみれになってやろうなどと思うわけがないでしょう。リーダーは「モデル」たるべきです。ただ上から命令して、他の人が実行したことを評価するだけの人はリーダーではない。」
「本来やらなくてもいいようなことをやって、何かやった気になっている。そういうことではリーダー失格です。」

 

6. 河野英太郎『99%の人がしていない たった1%の仕事のコツ』より
『あいつ使えない」という表現は、『あの人は役に立たない』という意味ではなく『私にはあの人を使う能力がない』という意味だ。『あいつ』と指さした手の指のうち3本は自分に向かっている。」

 

7.「会議」というものについて、隆慶一郎の『影武者徳川家康』よりの一説を掲げておく。会議のすべてが、こうではあるまいが、会議というものの性格について、一面の真理を衝いている。大阪夏の陣を控えた大阪城内の延々たる会議の連続について述べた言葉である。
「会議が無闇に多くなるのはその集合体が滅びに向かったしるしであることは古今を通じての真実である。」

 

8. その他気になる言葉
 あるシステムの中にいると、それを客観的に見ることができなくなる。
(目を見張る金融立国からリ-マンショックで一夜にして経済破綻したアイスランドで、漁師から銀行員になり、金融破綻で再び漁師に戻ったアルブソン氏の話。)

 

 かねて、大長老という人は心中に怒りというものを置かなかった。長として物事を判断する際に、己の感情を決定要素にしないのである。常に争いを避け、処罰は出来るだけ避け、諸事たいらかな方へ物事を運ぶようにした。
酒見賢一『陋巷にあり』第4巻 208頁)