日本共産党の知的怠惰?

 12月8日、TBSラジオ荒川強啓のデイ・キャッチに、日本共産党志位和夫委員長がゲスト出演していて、車で帰宅する際に最後の方を少しだけ聞いた。

 そこで志位委員長は武田一顕記者の質問に答え、①野党共闘は、戦争法案(安保法案)の全廃で一致する必要がある②日本共産党という党名の変更は考えていない、という趣旨のことを述べていた。

 志位委員長のような知性の極めて高い人の発言にしては、①「戦争法案」などと安易なレッテル貼りをするのは知的怠惰である、②党名を変えないのは、日本共産党80年の一時期のおぞましい歴史の部分も丸ごと引き受ける蛮勇がある、ということになるだろう。

 つまり、①はデマゴギーを撒き散らす臆面のなさの顕われで、②は日本共産党が過去の桎梏から逃れられない政党であることの証明となる。要約すれば、志位委員長は、過去からの呪いを受けたデマゴーグということだ。

 ただ志位氏も、恐らくそんなことは百も承知で、①は党の先細りの状況から脱するための必死のカリカチュアライズであり、②は宮本氏、不破氏と連綿と続いてきた党のメインストリームから外れることができず、自ら思考停止を偽装(韜晦)している、とも理解できよう。つまり、ご苦労なことに、志位氏は悲しい道化役を引き受けざるをえないのだ。

 

 ここでは、政治信条(イデオロギー)や特定の政党・政治家のあれこれの批判や評価をしているのではなく、単に組織と指導者のあるべき姿としてはどうか、という取り留めのない感想を述べているだけだ。

 

 ところで、日本共産党に関しては、元同党の大幹部であった筆坂秀世氏の『日本共産党』をざっと読んでみたが、つまらない本だった。これは、筆坂氏の文章力のことではなく、日本共産党そのもの(歴史、組織、活動、指導者)のつまらなさである。

 党を体現する宮本顕治氏、不破哲三氏、志位和夫氏の政治家としての力量が、同じ共産主義を国是とする国々の指導者たち、レーニン、スターリン毛沢東金日成、ウルブリヒト、チトー、チャウシェスク、のような悪魔的にして犯罪的な巨魁とは(良くも悪くも)天地ほどの違いがあるからである。彼らは日本共産党の指導者などとは異なり、それぞれの国で独裁的権力をほしいままにした政治家たちであるが、権力を握るに至る過程においても鬼気迫る凄まじい謀略や暴力の限りを尽くしてきた魔人たちでもある。

 彼らに比べれば、宮本氏以下が日本人の常識の枠内に収まる穏やかで良識の持ち主とさえ見える。それはそれで私たちにとって幸せなことだが。(実際は、特に宮本氏の生涯にはそれなりに凄まじいエピソードもあったことは承知のとおりだ。) 

日本共産党 (新潮新書)

 

 

 

『高校生からのゲーム理論』松井彰彦著(ちくまプリマー新書、'10.4.10)-隔靴掻痒?

 本書は、橘玲氏の『「読まなくてもいい本」の読書案内』のブックガイドで、定番の入門書として推奨されているもので、すぐに書店で買い求めて読了した。ゲーム理論のアウトラインを理解するのに適した書物で、大変解かりやすく、曖昧なところのない良心的な著作であると思う。 

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)

 本書の性質上(また著者の著述の動機から考えても)、ゲーム理論の大概を示し、現実の社会でいかに役立てるべきかを考えさせる本であり、それ以上でもそれ以下でもない。 くだけたエッセイ風の文章が楽しい。

 

 ゲーム理論を要約すれば、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの大著『ゲームの理論と経済行動』(1944年出版)を出発点とする意思決定の理論であり、他の理論と根本的に違うのは、複数の人間が存在するときの意思決定を扱うことである。人々はそれぞれ目的を持って意思決定を行うが、結果は自らの決定だけでなく、他の人々がどのような意思決定を行ったかに依存して決まる。したがって、ゲーム理論では、他の人々がそれぞれの目的を達成するためにどのような意思決定してくるかを常に考えながら、自分自身の目的の達成を目指して意思決定を行わなければならない。」(武藤滋夫著『ゲーム理論入門』より。一部文章を簡潔化した。)

 

 本書では、例えば「ナッシュ均衡」理論がでてくるが、本書のみでは殆ど理解はできない。恐らく著者もそんなことは百も承知で、読者に次のステップへ進むことを促しているのであろう。多少は隔靴掻痒という趣はあるが、ゲーム理論に関心を持つための優れた手引書で、一読の価値があると思う。

「読まなくてもいい本」の読書案内(橘玲、筑摩eブックス、2015.11.25)

 この著者については、2002年の『マネーロンダリング』(幻冬舎)を読んで、あまりの面白さに、職場の仲間に押し貸しまでして無理やり読んで貰ったという記憶がある。

「読まなくてもいい本」の読書案内 ――知の最前線を5日間で探検する 、

 爾来大変気になる作家で、『臆病者のための株入門』(文春新書)、『大震災の後で人生について語るということ』(講談社)やら『マネーロンダリング入門』(幻冬舎新書)などを読んで、それぞれに感銘を受けたものだ。2014年の『タックスヘイヴン』(幻冬舎)も買いおいてあるが、これから読む予定だ。

 本書は、webサイトで見つけ、即刻電子版をKidleにダウンロードして一気に読了したが、実にエキサイティングであった。端的に言って面白すぎる。本書の読んでもいい方の「読書案内」における、著者の章別の分類の仕方も、それぞれの章に置かれたブックガイドも実に秀逸である。現在最もアクチュアルな知の地平を鮮やかに切り分けている。

 それぞれの章は以下のとおりだ。

1.複雑系フラクタル、カオスを含む)

2.進化論

3.ゲーム理論

4.脳科学

5.功利主義(特にトレードオフへの言及が興味深い、また正義論も一読の価値あり)

 

 著者は、<はじめに>で、膨大な知の圧倒的な堆積としての書物群(現時点で1億2986万冊といわれている)を前に、新しい読書術を提案する。

 20世紀半ばからの半世紀における知のビックバンを分水嶺として読むべき本を切り分け、「ビックバン以前」の本は読書リストから(とりあえず)除外するという方法だ。

 人生の残り時間が惜しくなってきた現在の自分にとって、目からうろこが落ちる思いだった。いささか衝撃的も受けたー成程そういう考え方があったか。

 では、ケインズマルクス、あるいはヘーゲル、カントなどのドイツ観念論哲学、ニーチェハイデッガーフロイトなど、常に書棚の特等席に鎮座して強迫観念の権化となって自分を睥睨している本はもう読まなくていいのだ、万歳!

 それでも最近はわが本棚でも、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』やニコラス・タレブブラック・スワンナオミ・クラインショック・ドクトリンサイモン・シンフェルマーの最終定理』『暗号解読』、マーク・ブキャナン『歴史は「べき乗則」で動く』ブノワ・マンデルブロ『禁断の市場』などの本が、前述の大思想家の領分を徐々に侵略し始めている。これらの著作は全て本書で触れられている。そうか、最近の自分の読書の方向は間違っていなかったのだ。

 

 著者は、ジェームズ・ワトソンとともにDNAの二重らせん構造を発見したフランシス・クリックの次の言葉を、従来意識の問題を独占的に扱うものとされていた「哲学」にその死を宣告したものとして引用している。

「哲学者だけが意識の問題に取り組める、という考え方には何の根拠もない。何しろ哲学者は2000年という長い間、殆ど何の成果も残していない。」『DNAに魂はあるかー驚異の仮説』

  また<あとがき>で、「古いパラダイムでできている知識をどれほど学んでも、なんの意味もない。」と結論を言い切る。

 

 本書では、小説には触れられていない。ドストエフスキートルストイ、またバルザックスタンダールプルーストジェイムズ・ジョイスフランツ・カフカなども分水嶺の向こう側にいる作家だから読む必要はないのか。文学の対象は、自然科学と異なり、進化も発展もなくむしろ退化しつつある人間存在の本質とその人間たちが絡み合う愚かな社会である。従って小説には分水嶺はないような気がする。

 ただ昨今、小説の類にそもそも読む必要や価値などあるのか、と深く疑っている。今のところ答そのえにたどり着いてはいないが。

 

 

アンドレアス・シュタイアー演奏会へ行く

 12月8日、トッパンホール(文京区水道1-3-3)へ、アンドレアス・シュタイアー演奏会を聴きに行く。

プログラムは下記のとおり。

シューベルト「4つの即興曲より、第1番、第2番」

シューマン「幻想小曲集」

シューベルト「樂興の時より、第1番、第2番、第3番」

ブラームス「6つの小品」

アンコール曲「樂興の時より、第6番」

 使用楽器は、お得意のピアノフォルテではなく、1887年製ニューヨーク・スタインウェイ(タカギクラヴィア所有)で、モダンピアノとしては初期のものだ。

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  曲目は、どうということのない小曲ばかりだが、こんなに面白く聴かせる技量は大変なものだ。一音一音が生き生きと躍動し、まるで鮎か鯉が跳ねているようだ。素人耳でも、テクニックの確かさ、鮮やかさは凡百の演奏家とは別次元であることが感じられる。

 シュタイアーは、専らモーツァルトピアノソナタを愛聴している。(下記)

”Piano Sonatas”  Andoreas Staier,pianoforte(harmonia mundi)

CD1:K399,574,282,455,475,457

CD2:K330,331,332

 例えば、K331などは、のけ反るような驚くべき超弩級の名演で、この曲の演奏では、リリー・クラウス(1958年)とともに、こよなく愛している演奏だ。(トルコマーチの楽章はyou tubeでも聴くことができる。)

 しかし、今夜聴いた演奏は、極めてオーソドックスな、正道を行く堂々たるものだ。ただ、曲目が小曲ばかりなので、肩を張らずに、くつろいで聴くことができ、楽しい一夕となった。

 演奏終了後、買い求めたCDにサインを貰った。ありがとうございました!

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特定行政書士考査に合格

 10月8日にこのブログに書いた「特定行政書士研修」の考査の通知が、5日に届いた。

 結果は<合格>ということで、ひとまずほっとした。高齢の故、このところ記憶力も劣化しつつあるのは確かだが、これで何とか一矢を報いた(?)といった感じだ。

 もっとも合格率は66.7%なので、合格して当たり前ともいえる。まあ、そう大したことでもないだろう。