10月8日にこのブログに書いた「特定行政書士研修」の考査の通知が、5日に届いた。
結果は<合格>ということで、ひとまずほっとした。高齢の故、このところ記憶力も劣化しつつあるのは確かだが、これで何とか一矢を報いた(?)といった感じだ。
もっとも合格率は66.7%なので、合格して当たり前ともいえる。まあ、そう大したことでもないだろう。
10月8日にこのブログに書いた「特定行政書士研修」の考査の通知が、5日に届いた。
結果は<合格>ということで、ひとまずほっとした。高齢の故、このところ記憶力も劣化しつつあるのは確かだが、これで何とか一矢を報いた(?)といった感じだ。
もっとも合格率は66.7%なので、合格して当たり前ともいえる。まあ、そう大したことでもないだろう。
2月9日のブログで、下記のとおりの血液検査のデータを示した。
(26.7)(27.2)
AST(GOT) 32 26
ALT(GPT) 42 24
中性脂肪 305 239
空腹時血糖 126 121
尿酸 7.7 7.9
さて、6月29日に半年振りに健康診断を受けたが、その結果は次のとおりであった。
AST(GOT) 20
ALT(GPT) 16
中性脂肪 97
空腹時血糖 114
尿酸 7.0
みな驚くほど改善している。特に、ここ何年も200を下ったことのない中性脂肪の数値が、嘘か!と思えるほどの低さである。他の数値もそれぞれ改善しており、血糖値が少し高い以外は、ほとんど正常値と言っていいだろう。
原因は何であろう。体重も、昨年8月以降小麦を口にしなくなってから、80キロ前後あったものが、なんと73~74キロとなって、6~7キロは減っている。それも1年をかけて徐々に減らしたので、今では少し余計に食べる機会があっても、リバウンドはなく、体重は安定している。BMIも25.0で、ほぼ正常値となった。
やはり、小麦食品を食べなかったからだろうか。管理者は、生活習慣病の薬は一切飲んだことはないし、今も飲んではいない。というより、薬といったものは、歯の治療のときだけ時々服用するロキソニン以外は、一切飲まないといっていいだろう。唯一常用しているのは、漢方の「防風通聖散」のみである。これは通じを正常にするために飲んでいるのだが、もしかして中性脂肪を減らすのに役に立っているのかも知れない。
感謝の意をこめて、もう一度『小麦は食べるな』(日本文芸社)の表紙を掲げておく。小麦を食べないのは、今では理屈を超えて、信仰に近いものになっている。
10月13日の午後6時から、N大学の親しい仲間が年に1度久闊を叙すために集まる「ホワイトクラブ」というネーミングの親睦会が開かれた。今年の参加者はやや少なく、8人であった。会員名簿では19名を数えるのに。
今年はN市内の「I軒ホテル」で行われた。大学卒業以来の仲間だから、皆もう55年ほどの付き合いである。思えば気の遠くなるような長い歳月だ。
例会が終わって、有志で市内の2軒のバーで飲み直したが、うち1件は在学中からある懐かしい店だ。ほとんど当時と一緒のスタイルで生き残っている。驚くべきことだ。
ともに飲みに出た友人は、ほろ酔い加減で街を散策しながら、昔あったいろいろな店舗や、店舗の跡を見つけては懐かしげに思い出を語る。しかし、自分は、思い出しはするがあまり懐かしさを感じない。何故だろう。
齢を重ねると感受性が喪われていくのだろうか。とすれば、懐かしさに浸る友人は、まだ若々しい感受性を持っているに違いない。ある意味羨ましく思うが、年齢を経るごとに、次第に世間のさまざまな事象への執着がなくなっていくのも自然なことだろうと自ら納得してみる。
帰郷して2~3日後、街を一緒に歩いた友人Sさんから郵便封筒が届いた。その中には、『SUR』というN大学の文芸誌(N文学第21号)が入っていた。管理者が大学2年のころに発行されたもので、初めて活字にした自分の詩が載っている。この文芸誌はもう手元にはなく、管理者にとって幻の雑誌だった。五十数年ぶりの邂逅であった。
あまり上品な作品とはいえないためか、海野朋夫というペンネームで載せたのだ。恥ずかしながら下記に再現してみる。今読むと修辞のおかしなところもあるが・・・・。どうかご笑覧のほどを。
秋の生理 海野朋夫
(季節の激烈な発情がようやく収斂されてーーーーー)
ひきちぎられた萎えた陰茎
あるいはひきつった鈍色の喀痰
可視的非在たる蒼穹に虫様突起の濫造さながら
顫動増殖に駆られているうそ寒い群雲が汚れている
季節の膣からは透明な経水が散乱し
空中から角膜の剥げ落ちる白々しさ
垂れこめた古い羊皮紙のような疥癬
被虐嗜好性感覚が悲鳴をあげて
酸鼻きわまる裂傷をつくろとき
徐々に徐々に季節の胸は浸潤されてゆき
澄み渡る咳の音に耳を傾け
やがて西空でおびただしい血反吐を吐いた
陰金田虫の変態性欲者は
間もなく子宮癌で腐り果てるであろう
さもなければ癲狂院の長い廊下で
鉄のごとく陰険な忍耐を啖い尽さねばならぬ
そしてあまりにも苦い
精神分裂症を嘗め尽さねばならぬ
絶え間なく飛びしきる
赤茶けた脱陰毛に吹かれて
ブログをしばらく更新できなかった。
実は、8月4日から7日まで「特定行政書士法定研修」の講義に参加し、10月4日の考査日に至るまで、行政法の勉強に忙殺され、他の事には全く手が回らなかったのである。
この歳になって、行政手続法、行政不服審査法、行政事件訴訟法、要件事実などに悪戦苦闘しながら取り組んでみたが、つくづく集中力の欠如と記憶力の衰えを痛感することとなった。
この間、いろいろな学者の本を読むことになったが、塩野宏氏と橋本博之氏の著書が特に参考になった。とりわけ塩野氏の「行政法Ⅰ」(有斐閣)は、必要な部分だけ読んだのだが、その重層的で含蓄に富む文章と読み筋の深さにほとほと感銘した。また学習の合間に、遥か昔の学生時代をしばし思い出した。大学時代の行政法の授業は確か、東北大学からの出張講義の柳瀬良幹教授ではなかっただろうか。柳瀬教授は、当時のわがN大学で憲法を講義されていた菅野喜八郎先生(後に東北大学教授)の師匠であったはずだ。当時のN大学の教授陣は、東北大学法学部からの出張講義が多く、刑法の木村亀二教授、民事訴訟法の斉藤秀夫教授など錚々たる陣容であった。それはつまり、情けないことに、N大学ではプロパーの教師に事欠いていたことの証左でもあった。
今度の行政法の学習により、われわれは毎日毎日、無数の各種行政法令や規則、あるいは条例が網の目のように張り巡らされた管理的な環境の中で仕事をし生活を送っていることがよく分かった。この世はまさしく官僚により限りなく統制された窮屈な社会である。10月5日から通知カードの配達の始まるマイナンバー制度がその一つの着地点であろう。
webサイトでのプレ研修も、本番のビデオ研修でも、山田洋(一ツ橋大学)、橋本博之(慶応大学)、白藤博行(専修大学)の各氏の講義を聴いたが、管理者には橋本氏の講義内容が最も精緻で話術も優れていたように思えた。
10月4日の考査の結果はどうであろうか。ここまでくれば、12月初めの結果発表までは待つしかない。
最近、久しぶりに「ショーシャンクの空に」をJ:COMで観た。
スティーブン・キングの中篇小説『刑務所のリタ・ヘイワース』をフランク・ダラボンが映画化したもので、ティム・ロビンス(アンディ)とモーガン・フリーマン(レッド)が主演した深く心に沁みる感動的なヒューマン・ドラマである。
映画の中で、図書館係となったアンディが、州議会から送られた古書の中に、モーツァルトの「フィガロの結婚」のレコードを見つけ、刑務所内放送で流す場面がある。放送室の鍵を閉め切ってレコードに針を載せると、刑務所内のいたるところにフィガロ第3幕の伯爵夫人とスザンナによるソプラノの二重唱『そよ風に寄せる』の美しい旋律が流れる。中庭にいた多くの囚人たちは空を見上げて金縛りに遭ったように、そして惚けたように聴き入るという、作品中もっとも感動的で美しい場面だ。
映画に使われたものではないが、下はチェチーリア・バルトリとレニー・フレミングという豪華歌手が歌った同曲の映像である。
Bartoli & Fleming - Le Nozze di Figaro - Sull'aria ...
さて、それ以来というもの、聴くのは専らモーツァルトと相場が決まってしまった。雑然と重ねてあったCDの山の中から、モーツァルトの曲をみな引っ張り出す。車の中でクレンペラーの「魔笛」や沢山集めた「レクイエム」を流しながら走る。
さて、今日(6月28日)のことだ。iPad miniでyou tubeを検索して、K331のピアノ・ソナタを聴くことにした。この曲とK466のピアノ協奏曲は高校の頃からモーツァルトの曲ではもっとも親しんできたものだ。
これまで聴き親しんできたのは、K331では1956年のリリー・クラウスの演奏だ。ところで今日は、グレン・グールドとアンドレアス・シュタイアー(「トルコ行進曲」のみ)の演奏を聴いてみて、その演奏の奇抜さにあらためて驚くと同時に、管理人も年を重ねたせいか懐が深くなり(?)、これらの演奏に言うに言われぬ感動を覚えることができるようになった。これらを聴いたら、他の演奏は刺激が少なくて聴けなくなる。麻薬のように危険で、腰が抜けるような忘れられない演奏だ。(シュタイアーには、バッハのゴールドベルク変奏曲のハープシコードによる演奏の映像があるが、これも素晴らしい。)
K466の「ピアノ協奏曲第20番」、普段はクリフォード・カーゾン=ベンジャミン・ブリテン盤を愛聴しているのだが、you tubeに内田光子の指揮・ピアノによる映像があったので何気なく観た。するとどうだろう、冒頭の指揮の場面を観た瞬間から身が打ち震え、涙が滂沱と流れる(大袈裟?)ほど感動の波が襲ってきたのだ。気合の入った第1楽章のカデンツァも素晴らしい。宇野功芳氏の「柔らかくも臈(ろう)たけた美音」という表現がぴったりだ。
内田光子の軽く目を閉じて、まるでモーツァアルトの霊が乗り移ったかのような、しかもインド神話のアプサラス神を思わせる強烈に心魅かれる(宇野氏流に言えば)臈たけた腕さばきが見事だ。ピアノもさることながら、その妖しいまでの表情と身の裁きが神憑り的に曲を支配する。演奏が終わっても拍手が鳴り止まないのは当然だ。
ところで、演奏を終え、日本人らしきヴァイオリンのトップと握手をしたが誰であろう?伴奏のカメラータ・ザルツブルグには日本人でセカンド・トップを勤める手塚有希子さんがいるが、どうやら違うようだ。もう一人、日本人の血が流れているクレア・ドルビーさんがいるが、似ている感じだ。そう、彼女かも知れない。
内田光子のこの曲の演奏は、ジェフリー・テイト(イギリス室内管弦楽団)との演奏をiPadに入れて時々聴いてはいたが、やはり目から来る印象は圧倒的だ。
最近つくづく思うのは、作曲家でモーツァルトほどの天才は他にいないということだ。モーツァルトだけが天才の名に値する存在であり、例えばベートーヴェンですら大秀才の範疇にとどまる。他は押して知るべしだ。(あ、バッハは神であるということを言い忘れていた。)
大学生の頃、友人でA・Eというモーツァルト狂いがいて、彼への対抗上やむなく管理人はブラームスにしきりに入れ込んでみせた。学生という観念世界の住人だった愚かさからだったろうが、今思えば、絶対にA・Eの方がまともだ。
兎に角、今やモーツァルトを聴くことは人生に残された数少ない悦楽にして大いなる慰めなのである。